五島列島旅行記(その1)---福江島

五島列島が世界遺産になったのを機会に、3月3日(日)から3泊4日の旅に出かけました。
羽田11時発、長崎で飛行機を乗り継ぎ福江島に午後3時半に到着しました。
画像宿泊は、港や中心街に近いカンパーナホテルです。写真は窓から南側を見た眺めです。福江城(石田城)は、外国船襲来に備え1849年から15年かけて、藩主五島氏により築かれた江戸幕府最後の城郭です。当時は三方海に面した城でしたが、その後埋め立てられ、現在は福江市街の中心に位置し、石垣や門が残っています。写真の天守閣は城の二の丸に建てられた五島観光歴史資料館、その右に見えるのが県立五島高校の校舎です。遠方に見える山は標高315mの鬼岳。山焼をして茶色をしていますが、芝生に覆われた火山です。伊豆半島の大室山に似ています。
画像武家屋敷通りの石垣が昔の面影を残しています。石垣を積んだ上に丸い石が頂部を形作っていますが、いざ外敵が攻めてきた時に投石する弾に使えるように考えられているとのことです。
画像福江島島内を見て回るのには五島観光の定期観光バスを利用しました。最初に訪れたのは島の西端にある井持浦教会堂です。1895年(明治28年)に赤煉瓦造りの教会堂として建てられたのですが、その後、台風で倒壊し、赤煉瓦を模したコンクリート造りの現教会になったそうです。当日は我々より早く観光バスでやってきた韓国カトリック教徒団体が、韓国人神父のもと、この教会堂でミサを行っていました。
画像1899年に日本で最初に作られた「ルルドの洞窟*」として有名になり、信仰の聖地として巡礼者が訪れるのだそうです。横の井戸には霊水が注いでいます。
*注:「ルルドの洞窟」:1858年フランス・ルルドの洞窟のそばで薪割りをしていた14才の少女の前に聖母マリアが姿を現し「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と告げた。近くに水は無かったが、聖母は洞窟の岩の下を指さした。清水が湧き出ており、ルルドの泉の始まりとなった。泉の水によって不治の病が治療される奇跡が次々と起こり、ルルドはカトリック有数の巡礼地となった。
画像島の西南端の大瀬崎断崖です。高さ100mから180mの海蝕断崖が東シナ海に突き出して約20km続いています。岬の先端には真っ白な大瀬崎灯台が見えます。映画のロケ地にもよく使われるそうです。
画像西海岸を北上すると高浜ビーチです。荒波で白い珊瑚と貝が粉末になって白い砂浜とエメラルドグリーンの海を作り出しています。ここからさらに北上した湾は、その昔(8世紀から9世紀にかけて)遣唐使が日本を出る最後の寄港地だったとのことです。
画像福江島の北の入り江に建つ堂崎天主堂です。1873年(明治6年)禁教令が解かれた後、五島で最初に建てられた教会堂です。江戸時代、禁教後の弾圧で五島のキリシタンは殆ど姿を消しましたが、1797年五島盛運は大村潘に移民を申し入れ、多くの潜伏キリシタンが新天地を求めて五島に移り住んできました。明治時代になり、宣教を再開したマルマン神父によりカトリックに復帰し、ペリー神父が明治41年に現在の天主堂を完成させました。現在館内は資料館になっています。
画像聖堂前の庭には両神父の銅像とともに、五島出身で26聖人の一人である聖ヨハネの殉教像が立っています。ヨハネ五島は、1597年大坂で捕えられ、長崎まで800km,33日間引き回された後、西坂において他の信者・神父25名とともに十字架上で殉教したのでした。当時19才の青年でした。聖ヨハネ五島聖骨は、西坂からマニラ、マカオ、大浦天主堂を経て、資料館開設時に里帰りしたとのことです。資料館には、この他、かくれキリシタン資料(経典であるオラショ、教会暦、マリア観音等)が展示されています。
画像福江島南端には鬼岳から流れ出た溶岩の海岸が7km続き亜熱帯植物が茂っています。五島の殿様が馬で通行中鐙が切れ、陸路をあきらめ海路に切り替えたので、鐙瀬溶岩海岸という地名になったのだそうです。
画像五島椿です。
幻の椿「玉の浦」は、ヤブツバキの一種で赤い花弁の縁を白い縁取りで包まれています。突然変異で生じたのですが、今では全国各地に植えられています。椿油は当地の特産品の一つであり、バラモン凧、サンゴ、多くの海産物、五島牛などが産物として挙げられます。なお、福江島の人口は約3.6万人です。久賀島。奈留島を合わせ現在は五島市になっています。

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